《100年の足跡》 2012年の創立記念日に寄せて
(1) 「横濱のアクロポリスの丘」(西グランド)を拡張して、今年で60年。
戦後の焼け跡からの復興も軌道に乗った、1952年(昭和27年)3月17日発行の『学園時報』に、当時校長だった創立者佐藤善治郎先生が次のような記事を書かれています。
「今度、3000坪を加えて8000坪になった校地は、神奈川台の一部で、標高30メートルの高台で、城砦のような形勢の地である。地盤堅固で、眺望も絶景の土地である。正面には横浜駅を見下ろし、駅を超えて横浜港の全面を見渡すことができる。新旧防波堤の4基の赤白燈台を結んだ線の正面の位置に本校がある。
横浜は、我が国の玄関だと言うが、本校は、玄関の正面に位置している。その例を世界に求めるならば、ギリシャのアクリポリスの丘と、高さも形状も似ている。ギリシャのアクロポリスの丘は、世界文明の起源をなしているが、その万分の一でもいいが、文化の中心となりたいものである。」
左の写真は、その記事に添えられた、新しく校地に加えられた3000坪の土地、現在の『西グランド』を精華小学校側から撮影したものです。右側に小さく善治郎先生も映っています。
右の写真は、昨年度人工芝とタータントラックに改装された現在の西グランドです。横浜駅周辺やみなとみらい地区の高層ビル群に囲まれて、昔のように港を一望することはできませんが、創立者佐藤善治郎先生が、この丘を「ギリシャのアクロポリスの丘」に重ねて、本校が日本の文化の中心に、とお考えになったその思いを、私たちは受け継いで行きたいと思います。
(2)創立以来、「自治」を大切にしてきた学園の伝統――「学友会」のこと
創立の翌年(大正4年 1915年)に「学友会」が誕生しました。学友会誌『花と實』創刊号に、その結成宣言とも呼べる文章が掲載されています。
――本会は、とりもなおさず、生徒自ら、自発的精神によりて本校教育事業を助けんとしておこったもので、どこまでも自治的の会である。職員はこれを指導補助するのであって、どこまでも生徒が主体である。生徒が真に自発的に、そして大いに活動してこそ本会の目的は達せられるのである。この自治という精神、奮闘という行為、これは今日および今日以後の日本女子にとって特に必要であろうと思う。
我々は、この学校時代において、大いに堅実なる基礎を作りたいと思ふ。要するに大いに働く人でありたい。働く人となりたい。――
組織は、修養部・雑誌部・図書部・運動部・購買部・会計部の六つに分かれ、校長が会長で教員がそれぞれの部長になっていたが、教員の役割は助言と補助に止め、「実際の運営は、生徒の自治にゆだねられた。」と言われています。現在の生徒会の各委員会、クラブ活動、などの組織の草分けだと考えてもいいようです。少し違うのは、購買部(生徒のために文具、パンなどを安く販売する)、雑誌部(学友会の雑誌『花と實』の発行)、「修養部」「学校の風紀を維持することと、慶弔に際して対外的に生徒を代表する」などがあります。たとえば教師の家庭に不幸があったら、修養部が、生徒を代表して見舞ったそうです。ある意味では、現在の生徒会などより、もっと自立した、自治的な活動だったと言えるかもしれません。当時の多くの学校に「学友会」「校友会」という名で誕生していますが、活動内容は実にさまざまでした。
(3)学友会修養部の初仕事は、「校章の制定」を学校に申し入れたこと。
学友会が、5月に誕生すると同時に、修養部は、学校に「校章の制定」を申し入れました。学校は直ちに、美術科講師の西松團三教諭(神奈川師範教諭/現横浜国立大)にデザインを依頼しました。
その結果できたのが、右の校章でした。周囲は、桜の花びらを形どり、中央に図案化した「實」(実の旧字)を配したもので、生徒にも好評でした。「實」は当時の学校名であった、「横浜実科高等女学校」の「実」であり、同時に桜の花びらに囲まれることにより、「外は優美、温雅にして、内は心の堅実なること」を象徴し、さらに「花が実を結ぶのにあやかりたい」と気持ちをも含むという、はなはだ贅沢なものでした。その年の7月1日に発表になり、敗戦の年1945年(昭和20年)8月末まで使われたのです。
その途中、1921年(大正10年)に本校の校名が「横浜実科高等女学校」から、「神奈川高等女学校」に変更されたときに、校名から「実」の字がとれた以上は、校章も変更すべきであるという意見が出されました。だが、その優れたデザインを惜しむ声も強く、結局、校章の「実」には、「実科」以外の多様な意味が込められており、学友会誌の誌名は、すでに『花と實』と付けられており、校章も変更する必要がないと意見が有力となり、校名が変わったにも関わらず、校章はそのまま踏襲されたのでした。
(4)「花も実もある」女性になろう――が合言葉に
学友会誌「花と實」の創刊号(1915年7月発行)では「花も実もある女性になろう」というよびかけと、「花と實」という旗を押し立てて行く「宣言」のような文章が掲載されています。
――本誌のこの名(花と實)は、わが校章とあいまって、われらの抱負を遺憾なく発揮していると言うべきである。さらに「実科」(じっか)は、その音、「実花」(じっか)と相通じるではないか。われらは、この「花と實」の旗を押し立て、終始一貫奮闘したい。――
現在、「花と實」という名は、中高「同窓会」の名前として、また同窓会の機関紙の名前として残っています。2万人を超える卒業生たちが、今も「花と實」の言葉でつながっているのです。
■■■なお、学友会は、1941年太平洋戦争勃発の年に、文部省の命令で全国一斉に「学校報国団」(もしくは報国隊)に組織替えさせられました。それは、「銃後の戦士」である教員と生徒の戦争協力を容易にする目的で組織されたものでした。本校でも、報国団に組織替えせざるを得ませんでしたが、なんとか内実は学友会の活動を残そうと努力した記録も残っています。しかし、「国防部」(特殊防護団、防諜、慰問)の新設など、それまでの活動とは全く異質の組織にならざるをえない歴史をたどることになりました。
(5)「学校は公器、教育は公共事業」――学校名に個人名をつけなかった理由
学校名を変更した話が出てきましたが、その理解を助けるために、二つのことを説明します。
①一つは、戦前(大正時代)の教育制度についてです。大正時代は、義務教育は「尋常小学校」(6年制の男女共学)のみでした。その上に進もうとする女子は4年制(または一部5年制)の「女学校」がありました。(男子は「中学校」)女学校のうち、裁縫や簿記などの実科科目に重点を置くものを実科女学校といいました。女学校や実科女学校のうち、「高等女学校令」に基づいて、文部省が認可すると「高等」の文字が付き、高等女学校、もしくは実科高等女学校と呼ばれました。
(ア) 本校は、1914年(大正3年)に県の認可のみで設立可能な「横浜実科女学校」として出発しました。
(イ) 翌年、1915年(大正4年)文部省の認可を受けて、「横浜実科高等女学校」になり、それまでとは格段に社会的な信用が高まりました。1年で昇格できたのは、異例のことで、本校の教育内容が高く評価されたからだといわれています。
(ウ) 「今後女子も、高等教育への進学熱が高まるだろう」と考えた創立者佐藤善治郎先生は、それまで「実学的な科目が多い」ことを特徴にしていた「実科高等女学校」から「高等女学校」への転進を決意します。1921年に「神奈川高等女学校」へと変わるのです。
② 「学校は公器、教育は公共事業」と事あるごとに言っていた創立者善治郎先生は、創立者の姓を校名につけるべきではないというのが持論でした。「神奈川」は「東海道の神奈川宿」に由来する地元名であり、県名でもありました。いずれにしても、「佐藤高等女学校」とすることだけは、夢にも考えなかったといわれています。


















その形状と作業については、次のように書かれています。








