100周年プロジェクト 1914→2014

2012年5月19日 (土)

《100年の足跡》 2012年の創立記念日に寄せて

(1) 「横濱のアクロポリスの丘」(西グランド)を拡張して、今年で60年。

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 戦後の焼け跡からの復興も軌道に乗った、1952年(昭和27年)3月17日発行の『学園時報』に、当時校長だった創立者佐藤善治郎先生が次のような記事を書かれています。

 「今度、3000坪を加えて8000坪になった校地は、神奈川台の一部で、標高30メートルの高台で、城砦のような形勢の地である。地盤堅固で、眺望も絶景の土地である。正面には横浜駅を見下ろし、駅を超えて横浜港の全面を見渡すことができる。新旧防波堤の4基の赤白燈台を結んだ線の正面の位置に本校がある。
Dscf2814_4  横浜は、我が国の玄関だと言うが、本校は、玄関の正面に位置している。その例を世界に求めるならば、ギリシャのアクリポリスの丘と、高さも形状も似ている。ギリシャのアクロポリスの丘は、世界文明の起源をなしているが、その万分の一でもいいが、文化の中心となりたいものである。」

 左の写真は、その記事に添えられた、新しく校地に加えられた3000坪の土地、現在の『西グランド』を精華小学校側から撮影したものです。右側に小さく善治郎先生も映っています。

  右の写真は、昨年度人工芝とタータントラックに改装された現在の西グランドです。横浜駅周辺やみなとみらい地区の高層ビル群に囲まれて、昔のように港を一望することはできませんが、創立者佐藤善治郎先生が、この丘を「ギリシャのアクロポリスの丘」に重ねて、本校が日本の文化の中心に、とお考えになったその思いを、私たちは受け継いで行きたいと思います。

(2)創立以来、「自治」を大切にしてきた学園の伝統――「学友会」のこと

Photo_9  創立の翌年(大正4年 1915年)に「学友会」が誕生しました。学友会誌『花と實』創刊号に、その結成宣言とも呼べる文章が掲載されています。

 ――本会は、とりもなおさず、生徒自ら、自発的精神によりて本校教育事業を助けんとしておこったもので、どこまでも自治的の会である。職員はこれを指導補助するのであって、どこまでも生徒が主体である。生徒が真に自発的に、そして大いに活動してこそ本会の目的は達せられるのである。この自治という精神、奮闘という行為、これは今日および今日以後の日本女子にとって特に必要であろうと思う。
 我々は、この学校時代において、大いに堅実なる基礎を作りたいと思ふ。要するに大いに働く人でありたい。働く人となりたい。――
 
 組織は、修養部・雑誌部・図書部・運動部・購買部・会計部の六つに分かれ、校長が会長で教員がそれぞれの部長になっていたが、教員の役割は助言と補助に止め、「実際の運営は、生徒の自治にゆだねられた。」と言われています。現在の生徒会の各委員会、クラブ活動、などの組織の草分けだと考えてもいいようです。少し違うのは、購買部(生徒のために文具、パンなどを安く販売する)、雑誌部(学友会の雑誌『花と實』の発行)、「修養部」「学校の風紀を維持することと、慶弔に際して対外的に生徒を代表する」などがあります。たとえば教師の家庭に不幸があったら、修養部が、生徒を代表して見舞ったそうです。ある意味では、現在の生徒会などより、もっと自立した、自治的な活動だったと言えるかもしれません。当時の多くの学校に「学友会」「校友会」という名で誕生していますが、活動内容は実にさまざまでした。

(3)学友会修養部の初仕事は、「校章の制定」を学校に申し入れたこと。

Photo_10  学友会が、5月に誕生すると同時に、修養部は、学校に「校章の制定」を申し入れました。学校は直ちに、美術科講師の西松團三教諭(神奈川師範教諭/現横浜国立大)にデザインを依頼しました。

 その結果できたのが、右の校章でした。周囲は、桜の花びらを形どり、中央に図案化した「實」(実の旧字)を配したもので、生徒にも好評でした。「實」は当時の学校名であった、「横浜実科高等女学校」の「実」であり、同時に桜の花びらに囲まれることにより、「外は優美、温雅にして、内は心の堅実なること」を象徴し、さらに「花が実を結ぶのにあやかりたい」と気持ちをも含むという、はなはだ贅沢なものでした。その年の7月1日に発表になり、敗戦の年1945年(昭和20年)8月末まで使われたのです。
 その途中、1921年(大正10年)に本校の校名が「横浜実科高等女学校」から、「神奈川高等女学校」に変更されたときに、校名から「実」の字がとれた以上は、校章も変更すべきであるという意見が出されました。だが、その優れたデザインを惜しむ声も強く、結局、校章の「実」には、「実科」以外の多様な意味が込められており、学友会誌の誌名は、すでに『花と實』と付けられており、校章も変更する必要がないと意見が有力となり、校名が変わったにも関わらず、校章はそのまま踏襲されたのでした。

(4)「花も実もある」女性になろう――が合言葉に

 学友会誌「花と實」の創刊号(1915年7月発行)では「花も実もある女性になろう」というよびかけと、「花と實」という旗を押し立てて行く「宣言」のような文章が掲載されています。

 ――本誌のこの名(花と實)は、わが校章とあいまって、われらの抱負を遺憾なく発揮していると言うべきである。さらに「実科」(じっか)は、その音、「実花」(じっか)と相通じるではないか。われらは、この「花と實」の旗を押し立て、終始一貫奮闘したい。――

 現在、「花と實」という名は、中高「同窓会」の名前として、また同窓会の機関紙の名前として残っています。2万人を超える卒業生たちが、今も「花と實」の言葉でつながっているのです。

 ■■■なお、学友会は、1941年太平洋戦争勃発の年に、文部省の命令で全国一斉に「学校報国団」(もしくは報国隊)に組織替えさせられました。それは、「銃後の戦士」である教員と生徒の戦争協力を容易にする目的で組織されたものでした。本校でも、報国団に組織替えせざるを得ませんでしたが、なんとか内実は学友会の活動を残そうと努力した記録も残っています。しかし、「国防部」(特殊防護団、防諜、慰問)の新設など、それまでの活動とは全く異質の組織にならざるをえない歴史をたどることになりました。

(5)「学校は公器、教育は公共事業」――学校名に個人名をつけなかった理由

 学校名を変更した話が出てきましたが、その理解を助けるために、二つのことを説明します。Photo_12

 ①一つは、戦前(大正時代)の教育制度についてです。大正時代は、義務教育は「尋常小学校」(6年制の男女共学)のみでした。その上に進もうとする女子は4年制(または一部5年制)の「女学校」がありました。(男子は「中学校」)女学校のうち、裁縫や簿記などの実科科目に重点を置くものを実科女学校といいました。女学校や実科女学校のうち、「高等女学校令」に基づいて、文部省が認可すると「高等」の文字が付き、高等女学校、もしくは実科高等女学校と呼ばれました。

 (ア) 本校は、1914年(大正3年)に県の認可のみで設立可能な「横浜実科女学校」として出発しました。
 (イ) 翌年、1915年(大正4年)文部省の認可を受けて、「横浜実科高等女学校」になり、それまでとは格段に社会的な信用が高まりました。1年で昇格できたのは、異例のことで、本校の教育内容が高く評価されたからだといわれています。
 (ウ) 「今後女子も、高等教育への進学熱が高まるだろう」と考えた創立者佐藤善治郎先生は、それまで「実学的な科目が多い」ことを特徴にしていた「実科高等女学校」から「高等女学校」への転進を決意します。1921年に「神奈川高等女学校」へと変わるのです。

 ② 「学校は公器、教育は公共事業」と事あるごとに言っていた創立者善治郎先生は、創立者の姓を校名につけるべきではないというのが持論でした。「神奈川」は「東海道の神奈川宿」に由来する地元名であり、県名でもありました。いずれにしても、「佐藤高等女学校」とすることだけは、夢にも考えなかったといわれています。

2011年7月30日 (土)

《学園日誌》 2011がんばる夏(2) N館・西グラのリニューアル

2011年がんばる夏(2) N館のリニューアル工事始まる

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 夏休みの開始と同時に、N館の周囲に足場が組まれ始めました。1985年竣工のN館も、外壁や屋根に痛みが目立ち始め、その補修を行うためです。また、冷暖房施設も老朽化が進み、そのリフォームを行います。効率的で快適な空調施設を備えた学習環境を整え、2学期を迎えます

 夏休み中も、N館1階の保健室だけは使用が可能ですが、閉鎖期間後の夏休み後半は、N館各教室は使用できなくなります。

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 西グランドもタータントラックと人工芝に改装

 西グランドは、体育の授業だけでなく、陸上部の練習グランド、テニス部のテニスコートととしても大切な場所です。

 土のグランドとしての長所もあるのですが、何よりも近隣の住民の方々には、「砂塵」で迷惑をかけその改善が求められていました。このたび、関係の各部署での検討が進み、右の図のような改修案がまとまりました。

 中央部は、人工芝でテニスコート3面、サッカーグランドなどで使用できるようにし、周囲のトラックはタータン仕様にして、50m、70mの直線コースや200mの周回コースを走れるようになっています。この夏休みを使っての全面工事になります。   (m)

2011年6月27日 (月)

《学園日誌》 五大路子さん(高校23回卒)が長谷川伸賞を受賞

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※写真左:長谷川伸の会理事長平岩弓枝氏から長谷川伸賞を授与される。/写真中:賞牌を胸に感激の涙/写真右:受賞者の挨拶での五大さん。

 五大路子さんと演劇

 五大路子さんは、1965年4月に本校中学に入学、71年3月に高校を卒業された、高校23回生です。在学中から演劇部の所属して、活躍していました。

 ――16歳の時、神奈川県立青少年センターでの演劇教室に参加し、役者になろうと決意する。神奈川学園を卒業後は、桐朋学園演劇科に学び、早稲田小劇場を経て新国劇へ入団し、辰巳柳太郎・島田正吾、両師の薫陶を受ける。1977年には、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」でTV主役デビュー。その後、1999年に横浜発信を目指して「横浜夢座」を立ち上げ、以後ほぼ毎年公演を続けた。(※6月24日に千代田区麹町の弘済会館で開かれた授賞式での経歴紹介より)

  今回の受賞について6月16日朝刊Photo_5で取り上げた『読売新聞』では、その活躍について、次のように述べています。

 ――横浜を舞台とすることにこだわる理由について、五大さんは「夢を追って横浜で暮らし、成功した人や挫折した人の埋もれてしまった思いを舞台によみがえらせたい」と説明する。そんな五大さんにとって、「思ったことを行動に移す大切さを訴えた長谷川先生の言葉が芝居を始める原点」だった。「新国劇」に在籍していた20代の頃には、長谷川作品に数多く出演し、作品にあふれる人へのやさしさや思いやりに感銘を受けたという。――

(2011年6月16日 読売新聞より)

 授賞式では、平岩弓枝理事長が「五大さんはこれからもっともっと若返って、いいお芝居をしてくださいね」と激励。

 また、お祝いに駆け付けた横浜市長の林文子さんも、大正から昭和にかけて横浜市内にあった児童遊園地「鶴見花月園」を舞台に生きた人々に光をあてた最新作の「ジャンジャン花月園」にふれながら、激励の言葉を送られました。     (m)

 長谷川伸賞について   

 長谷川伸(1884~1963) 横浜市日ノ出町生まれ。家業が振るわず、小学校を中退。10歳から市内のドックに住み込みで働きながら、本を読みあさった。東京で新聞記者になった後、劇作家の道に進み、「一本刀土俵入」や「瞼の母」など数多くの作品を残した。長谷川伸賞は演劇関係者や作家の育成が目的で、長谷川が1940年に設立した「新鷹会」の主催。 (6月16日 読売新聞より)

2011年6月 5日 (日)

《100年の足跡》 2011年の創立記念日に寄せて

         現校地(神奈川台)での出発のころ

 創立者佐藤善治郎は、大正3(1914)年に、現在の横浜市南区浦舟町のリンネル工場跡地に学園の前身となる『横浜実科女学校』を開校しました。わずか79人の生徒で始まった本校が、その後、順調に発展を続け、仮校舎のままでは生徒を収容しきれなくなりました、将来の横浜の中心で、周囲は住宅地で、南向きの高台である現校地の「神奈川台」を、新しい校地に定め、新校舎の建築を始めたのは、1917年のことでした。

Map05(1)当時の地形図より

 右の地図は、現校地が当時どのような場所にあったのかを示したものです。1917年12月発行『花と実 第8号』の巻頭ページに掲載されています。

 (ア) 本校は、当時「横浜実科高等女学校」と呼ばれていました。――地図では中央やや上部黒く塗られた部分に「実科高女」と書かれています。
 (イ) 神奈川台の下に、左右に太くひかれた線が、旧「東海道」です。現在、本校から横浜駅の西口に向かって歩くと、鶴屋町の歩道橋の約30m手前に陸橋があり、頭上を道路が交差していますが、それが江戸時代の東海道です。その南側は松並木を隔ててすぐに海でした。東京湾の水が大きな入江になって、そこまで入り込んでいたのです。その入江は「平沼」と呼ばれていました。
 (ウ) 本校の建築がはじまる1917年当時、平沼の入り江はどんどん埋め立てが始まっていましたが、今の横浜駅の東口あたりは、まだ海でした。地図の中に書かれている東海道線の「横浜停車場」の場所は、現在の東横線高島町駅付近にあたります。横浜駅が、現在の位置に移されたのは、新校舎に移ってから10年経った1928年(昭和3年)の事でした。
 (エ) なお、地図の右の方に、旧東海道と点線の東海道線が交差しているところがありますが、そこが現在の「青木橋」です。その近くに「神奈川停車場」と書かれた駅がありますが、現在の京急線「神奈川駅」です。(当時は、省線と呼ばれていました)

(2)全校生徒が、新しい校地を下見/創立者がこの地を選んだ理由

Photo_2  1917(大正6)年11月7日には、全校職員生徒合わせて570人が校地の下見をしました。現在の横浜駅周辺には、石油タンクが並んでおり周辺には商店などほとんどありませんでした。そして、現在の沢渡公園のあたりは、直径50mほどの葦の茂った沼地だったといわれています。

 このように、現在からは想像もつかない環境でしたが、創立者佐藤善治郎は、一目でこの土地が気に入ったといわれています。その理由は、

 ①土地が高台にあり、眺望や日当たりのよさは教育環境としても好条件。②開発の遅れは、これから開発の余地があるということ。③省線(今の京浜東北線)「神奈川駅」の存在は、その周辺は将来的には必ず横浜の中心になる土地だと判断したこと。④そして、「埋立地ではないから、地盤も堅固で地震にも強い」という事でした。

 創立者の読みは、見事に的中します。新校舎に移って5年後の1923年(大正12年)の関東大震災で横浜市街地が全滅する中で、本校は「堅牢な地盤に守られ」一棟も倒壊することがなかったのです。そしてその5年後の1928年(昭和3年)には、現在の場所に横浜駅が作られ、一層便利な土地になり、同時に学校周辺は関東大震災で「地震に強い」と評判になって開発が進み、静かな住宅地が広がっていったのです。

(3)1918年7月4日 新校舎へ移転/1921年神奈川高等女学校に校名変更

1918 (ア) 右の写真が、1918年に完成した新校舎です。敷地は、現在と同じ2段に分かれており、下段の敷地に10教室と職員室など本館が作られ、上段には、「畳敷きの作法教室」「割烹教室」などが作られました。
(イ) 正門の石段だけが、この当時から、今日まで同じ位置に残っています。

(ウ) その後の学園の発展

 ① 1918年11月2日 新校舎の落成式で、校歌(藤村作 作詞 吉田信太 作曲)が発表されました。■第1章に「女子の自覚」、第2章に「こころの平和」、第3章に「勤勉」と、本校の校訓が歌いこまれています。

 ② 1919年 制服(当時、校服といった)を制定。この当時の制服は、「和服、生地は木綿、下地の色は夏服は白、冬服はこげ茶であった。生徒たちは、野沢屋で生地を買い、自分の手で仕立てた。」――これが、洋式の制服(セーラー服)に変わるのは、1926年(大正15年)でした。――しかし、その制服も太平洋戦争が始まるころには、国民服に変わり、モンペ姿に変わっていったのです。

③ 第1回大運動会(1919年5月)
学校裏手の鶴屋公園(現朝鮮学園)で開かれました。オリンピックのマラソン選手の金栗四三選手が模範走。
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 ④ 新校舎での大展覧会(1918年11月2日・3日)――以降この日程で実施。新校舎への移転は、当時「市の中心部を去る」ということで、観客が減少するのではないかと心配されましたが、1919年は2日間で12,000人を数え、大盛況でした。

 ⑤ 1921年4月校名変更――「横浜実科高等女学校」から「神奈川高等女学校」へ――多くの私立学校が、創立者名を校名に取り入れる中で、創立者は「教育は公共事業」「学校は公器」として、個人名を冠することを認めようとしなかったと伝えられています。

2011年3月 8日 (火)

《学園日誌 31》 創立者の著書『鎌倉大観』が、「広報かまくら」に紹介

 鎌倉にお住まいのYさんから、お手紙をいただきました。 Photo_8

 ――同封しました、『広報かまくら』(3月1日号)に、神奈川学園の創立者佐藤善治郎先生の著書についての記事がありました。この著書『鎌倉大観』は当時のベストセラーでした。懐かしさでいっぱいになりました。――

  創立者佐藤善治郎が、29歳で高等 師範を卒業し、最初に就職したのが、鎌倉にあった神奈川師範学校(現:横浜国立大学教育学部)でした。4年後の1904年には、34歳の若さで教頭に昇格しています。『80年史』には、その当時の活躍について、次のように書かれています。

 ――師範学校においては修身科を担当したが、他人の作った教科書に満足せず、やがて吉田精致氏との共著で『実践倫理講義』を著し、七版を重ねた。鎌倉史を中心とする地方史の研究もすすみ、1902年には名著『鎌倉大観』を刊行し合計五万部を売り、引き続いて『箱根大観』『三浦大観』をも刊行した。……

Photo_10 広報紙「かまくら」には、「明治の人が夢見た未来の鎌倉図書館」というタイトルで、この本の一部が紹介されています。後半の「鎌倉の将来」の章で、「著者が自分の夢の中にあらわれた100年後の鎌倉の町を紹介して歩くという趣向で、著者が夢見る未来の鎌倉の図書館が描かれているのです」と紹介されています。

 ちなみに、この『鎌倉大観』は、最終的には35版を重ね、戦後にも復刻されています。以下のような内容になっています。

 (1)鎌倉の大観 (2)鎌倉の地理 (3)鎌倉の案内
 (4)鎌倉の歴史 (5)鎌倉の史論 (6)鎌倉の将来

 

 

 

 

2010年8月 6日 (金)

《学園日誌 17》「被爆アオギリ二世」の物語

Wing11_4_2  神奈川学園では、1993年~2000年まで高校の修学旅行は広島での平和学習を行っていました。たくさんの被爆者の方々に出会い、その体験から「ヒロシマの心」を学んできました。

 1998年の高校2年C組の生徒たちは、語り部の沼田鈴子さんに出会い、そして「被爆したアオギリの苗」をいただいてきました。その苗は、校庭に植えられ、すくすくと育っています。(右の写真は、植樹の直後のアオギリ)

 その横に、「アオギリの樹」と書かれた「メッセージ」が残っています。

P1020023_2   1945年8月6日、午前8時15分、それは一瞬の出来事だった。鮮やかな閃光とともに熱線と爆風が広島の街を覆った。信じられない光景が目の前に広がった。にぎやかな広島の街は壊滅状態だった。

 語り部の沼田鈴子さんはこの体験を通して平和の大切さ、命の尊さを私たちに語ってくれた。沼田さんは、原爆で左足を失い、また婚約者の戦死を知らされ、悲しみと絶望の間で、心と身体に深い傷を負った。そんな沼田さんを救い、生きる勇気と希望を与え、励ましたのは、精一杯生きている青桐の姿だった。この青桐は、広島市内の中国郵政局の中庭、(爆心地から、1500メートル)で被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられたが、その傷痕を包むようにして、成長を続けている。今は、平和記念公園の一角に植わっている。沼田さんは、このアオギリの樹の下で、広島のことを語り継ぐことで、平和の種をまき続けている。

 私たちは、この被爆アオギリの種をいただき、新しい平和の芽を育てている。素晴らしい未来のために、このアオギリの樹を大きく育てていきましょう。

                 平成11年度高3C一同

 2010年8月6日、今日の広島での平和祈念式典に潘基文国連事務総長とアメリカのルース駐日大使が参加された。「核なき世界へ」の新しい1歩となることを祈りたい。(m)

 

2010年6月13日 (日)

《100年の足跡 》 関東大震災と創立者佐藤善治郎先生

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 1923年9月1日に起こった関東大震災で、在学生22名、卒業生18名がそれぞれの家で犠牲になりました。その日は、まだ夏休み中でした。

 現在の沢渡に移ってきてまだ、5年しかたっていなかった校舎は、強固な地盤にも守られ、倒壊することもなく、また隣接する民家が少なかったために火災の被害を受けることもありませんでした。

 横浜市街は、見る見る一面の火の海となり、今の横浜駅の位置にあった石油倉庫は、午後1時に爆発して三日間燃え続けました。校庭と後ろの公園、学校下の空き地には1万人を超える避難民が集まってきました。

 三日目の夕方に雨が降ってきたので、ついに校舎の中に人々が入り始めました。その様子を創立者は、のちに次のように書き遺しています。(『花と実』第37号 1932年2月)

 ――三日の夕になると雨が降ってきたので、一部は校舎に入り、他は住所を探して帰り始めた。学校に残っている者を数えると1200名いる。これを15,6室に分け、各室長を置き、ともに食物の世話をした。死生の巷に出入りしたことが何度もあった。(中略)4日には、お湯を沸かして避難の児童2、300人を一人で洗った。1日がかりだったが、今思うと楽しい思い出であった。

 この「死生の巷に出入りしたこと」とは何を意味しているのか、創立者が戦前に語ることは全くなかったのですが、その意味を初めて学園の歴史に書き記したのは、3代目の校長、理事長を務められた佐藤敬治先生でした。次のように書かれています。

――大震災直後に本校に避難した人々の中にも、少なからず朝鮮人がいた。無警察状態の中で本校周辺にも自警団が組織され、佐藤校長に引き渡しを要求してきた。この時、校長は彼らを寄宿舎の押し入れにかくまい、最後までかばい通した。自伝において大震災を回想した箇所で、彼が「死生の巷に出入りしたことが幾度かあった」とさりげなく書いているのは、このことを指す。彼自身、「朝鮮人を出せ」と日本刀で脅迫されたのである。この時命が助かった人々から、以後も長い間毎年9月1日になると、感謝の贈り物が届けられた。――

 その後、10月1日に生徒が戻ってきてからも、しばらくは避難民が校舎の半分を使っており、さらにその後は学校下の空き地に作られた県庁バラックに移ってからも、創立者が避難民の面倒を見続け、「本校の厚意に感激した」避難民たちが、引き揚げるときに配給の衣類を家を失った生徒に贈ったと伝えられています。

 また、11月には、被災者に支給する蒲団を横浜市の委託で1万2千枚を生徒たちが製作しました。寒くなる前に完成させるために、授業の時間も使って、職員、生徒全員で完成させたといいます。

 冒頭に掲載した写真が、その蒲団を作製してしている時のものです。震災の直後に編集された『花と実』21号(1924年6月発行)に掲載されています。よく見ると、右奥の校舎の前に、作業を見守る善治郎先生の姿が映っています。

2010年5月12日 (水)

《100年の足跡》 戦時中の防空壕

 昨日の「《100年の足跡》 創立記念日に寄せて」の中で、横浜大空襲の時、「生徒は防空壕に避難した、という記述がありましたが、どこに防空壕があったのですか?」という質問が寄せられました。(m)

(1)2005年の精華小学校の新本館工事で発掘される

Dscf2150  左の写真は、2005年10月に本校90周年記念建築の第2期工事で、精華小学校の基礎工事が行われた時に、防空壕が発掘された時のものです。ちょうど、崖側に向かって作られていた防空壕の一部が、見つかりました。

 創立者佐藤善治郎先生の書かれた戦時中の学園史――『神奈川学園10年史―太平洋戦争開戦より講和までー』――には、「多くの命を預かる者として、もしも私の判断がはずれて、生徒一人でも殺すようなことがあれば」大変なことだと考え、東京の焼跡を空襲のたびに見てまわり、防空壕の重要性を痛感し、建設を決意したと書かれています。

 昭和19年(1944年)の8月から、11月までの100日かけて大工事でした。

  

(2)防空壕の様子――『神奈川学園10年史』より

Dscf2152_2 その形状と作業については、次のように書かれています。

 ――本校は、幸いに地盤がよいから、位置を本館の上段の、精華小学校の庭下に、「王」という字形に掘り、その一画を20間(36m)とし、壕の高さを各々2mメートル、蓋の厚さを9尺(2.7m)とし、中央に3坪ばかりの本部を置いた。計百坪。六百人を収容するに足るもので、光線・換気・排水の完備したものであった。

 抗夫は山形県、福島県から屈強の者3人を頼んだ。当時、最上級生は勤労奉仕に出ていたので、1、2学年(10学級)が毎日1組、3時間ずつ働くこととし、抗夫は抗中で金属のように堅い岩を砕き、生徒は3台のリヤカーに積んで、正門外まで運んだ。

 今になっても思い出すのは、生徒が泥だらけになって、元気よく働いた事である。私は毎日運動服でともに働いたが、日曜日には抗夫だけ働くために、砕いた土がほとんど穴をふさぐようになるので、月曜日には、その空間2尺(60㎝)ばかりの所に這って入り、抗夫と話をしたこともあった。――

10  これを読んで驚くのは、生徒が交代で、働いていたということだけではなく、「毎日運動服でともに働いていた」校長の佐藤善治郎先生は、当時すでに70歳を超え、もうすぐ75歳になろうとする頃でした。

 戦火から子どもたちを守るために、ほんとうに必死に働いておられる様子がうかがえます。

 1945年の5月29日の横浜大空襲の時、防空壕に難を逃れ、最後は裏山で全焼する校舎を見守った職員、生徒。
 「職員生徒は無事か」と聞く善治郎校長に、生徒は「みな無事です」と答え、「校長先生がいないので、みんな心配していました」と答えたという、いかにも神奈川学園らしいエピソードです。

2010年5月11日 (火)

《100年の足跡》 「創立記念日」に寄せて

 神奈川学園には、歴史の節目になる記念すべき日が三つあります。

 ①神奈川学園の前身の『横濱実科女学校』が開校した、1914(大正3)年4月13日
 ②仮校舎から、現校地の沢渡の丘に本校舎を移し、今日までの発展の出発となった1918(大正7)年7月4日
 ③1945年の横浜大空襲で、校舎が全焼し、すべてを失った学園が、廃墟の中から不死鳥のごとく蘇って、復興記念式典を挙行した、1947(昭和22)年5月17日

 現在、「校史に残る記念すべき日」として、「創立記念日」にしているのは、戦後の復興がなった③の5月17日です。三つの記念日を振り返りながら、創立以来の先人たちのご苦労をしのびたいと思います。  (m)

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                           ■仮校舎での横濱実科女学校の「開校式」の様子

(1)1914年4月13日 『横濱実科女学校』 開校

 創立者佐藤善治郎先生は、本学園の前身になる『横浜実Cimg0107科女学校』を、現在の横浜市南区浦舟町のリンネル工場跡の仮校舎で開校しました。専任教員は4人、集まった生徒はわずか79人でした。

 「女子にみずから判断する力を与える」「女子に生活の力量を与える」の2カ条を掲げて出発しました。

 地縁、血縁の少ない「核家族化」の現象がいち早くあらわれていた、新興都市、横浜では、女性の場合でも相対的に「個人の能力が重視される」ことに注目し、女性の社会的な進出のみならず、家庭の主婦になるしか選択肢のなかった多くの女性に対しても「一家の統率者」となれと励ましたのでした。

                                                                            ■右の写真が、リンネル工場跡の仮校舎(木造3階)

 

(2)現在につながる発展の土台になった、現校地(沢渡の丘)で新校舎建設

 その後、順調に発展を続けた本校も、仮校舎のままでは生徒を収容しきれないようになってきました。将来の横浜の中心になり、周囲は住宅地で、南向きの高台である現校地の「沢渡台」に新校地を定め、新しい校舎の建築を始めたのです。

1918  1917(大正6)年11月7日には、全校職員生徒合わせて570人が校地の下見をしたそうです。新天地への喜びと同時に、丘の南側一帯、つまり現在の横浜駅西口一帯は、葦の茂った沼地だったわけで、もっとも近い駅は、青木橋付近の省線の「神奈川駅」(現在の京浜急行の「神奈川駅」)だけという不便さに、生徒たちのため息も聞こえてくる気がします。

 しかし、その10年後には、現在の場所に横浜駅が作られます。その後の横浜の発展の歴史を重ねてみるまでもなく、創立者の将来を見通す読みを的確さに感心するばかりです。

 左が、完成した新校舎です。1918(大正7)年7月4日に仮校舎から新校舎への移転が行われました。その様子を、『80年史』には、次のように書かれています。

――この日、全校の教職員と生徒は午前8時に仮校舎に集合し、校舎横の空き地で仮校舎との決別式を行った後、校旗を先頭に徒歩で新校舎に向かった。この日はあたかもアメリカ合衆国の142回目の独立記念日にあたっていた。伊勢佐木町から伊勢山を経て新校舎に歩を進める彼らの前にも、自由と独立の天地が待っていたのであった。

   

(3)1945年5月29日 横浜大空襲での校舎全焼

1945  1945年5月29日午前6時29分、関東地方に警戒警報が発令されました。爆撃機B29約500機が、飛来してきました。午前8時12分には空襲警報に切り替えられ、編隊はまっすぐ横浜を目指してきました。

 この日、神奈川高等女学校に登校した生徒は270名ほどでした。8時20分の始業の直前に空襲警報が発令され、生徒は防空壕に避難しました。近くの佐倉鉄鋼で勤労動員に従事していた3,4年生百数十人も、やはり本校の防空壕に避難しました。すなわち、この時生徒約400名が防空壕に避難したことになります。

 しかし、校舎の周辺に落ち始めた焼夷弾の火が、南側の崖の草に燃え広がり、崖に開いた開口部を通して煙が防空壕の中に侵入してきました。このままでは危ないと判断した校長は生徒を校舎裏の松林に誘導しました。そのときはまだ、校舎は無事でした。

 編隊の最後の4機が落とした焼夷弾が、ついに2階建ての校舎の屋根に吸い込まれ、たちまち爆発的な炎があがりました。火は次々と隣接する建物に燃え移り、神奈川高等女学校のすべての校舎と設備が灰になりました。

 ――(『80年史』より) 校舎が全焼するのにどれだけの時間がかかったのか記憶している人はいない。やがて燃える物がすべて燃え尽きて、火勢は自然と衰えた。避難していた職員と生徒が集まる。誰もが放心状態である。この時、あちこちに炎が残り、余燼がくすぶる中で、佐藤善治郎校長は絶叫した。「燃えているのは校舎である。本校が30年来蒔いた教育は決して焼けない。明日から復興にかかる」

   

(4)戦後復興の槌音 1947年5月17日 復興記念祭開かれる

 復旧作業は、困難を極めました。75歳の校長が自ら陣頭指揮に立ってモッコをかつぎ、生徒は二人1組になって焼けトタンに瓦や燃えかすを乗せて運搬し、懸命に焼け跡を整理しました。授業も、学校周辺の個人宅を借りて教室にしたり、県立の横浜第一高等女学校(現在の横浜平沼高校)の2教室を借りるなどして急場をしのいでいました。

 1945年8月、終戦を迎えても焼失した校舎を復旧することは不可能でした。11月になってようやく菊名にあった天野製作所の「青年学校跡」を借りることができ、そこを仮校舎として移転することができました。まだ、変則的な授業でしたが、それまでの「隔日授業」に比べるとかなりの改善でした。

 翌年、父兄総会が開かPhoto_4れ、校舎復興のための「後援会」結成と寄付をあつめることが議決され、その後のPTA活動の母体となりました。このような父母あたたかい後援と、一刻も早く旧校地で本格的な授業をしたいという生徒職員の熱望に支えられて、1946年4月には、本館上棟式を行うまでに復旧工事は進行していきました。

 その後、建築資材の不足、急激なインフレの進行などで、何度も中断せざるを得ない困難に見舞われましたが、ようやく第1期復興建築が完成したのです。戦前の施設と機能に比べるとまだ復旧半ばにも至らないものでしたが、この敗戦の混乱の中で、多くの学校がいまだ復興の緒についていないとき、いち早く落ち着いて学習できる教育環境が確保されたことは、職員生徒ともに、前途に希望をもった、喜びいっぱいの春を迎えたのでした。

――(『80年史』より) 1947(昭和22)年5月17、18日の両日、若葉の風さわやかな中で復興記念祭が行われた。戦火によって旧校舎を失ってから、早くも満2年が経過しようとしていた。鶴屋公園の緑を背景にして、元の位置に、木の香もかぐわしい赤屋根の新校舎が建った。建築の外観必ずしも誇るに足らずとはいえ、これを第1歩として、力強い復興の歩み期して待つべしという感じであった。この校舎を前にして、学園関係者一同いまさらのごとく今までの苦労を顧みて、まことに感激の極みであった。(中略)
 戦災によって、すべてを失った学園が、廃墟の中から不死鳥のごとく蘇って、復興記念の式典まであげえたことは、まことに校史に残る記念すべきことであるということから、これ以降、5月17日を本校創立記念日として、学園復活の経緯と先人の苦労を永く人々の記憶にとどめることとなった。

 

 

 

 

2010年5月 4日 (火)

《100年の足跡》1924年 創立者の第1回外遊の写真

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 「清く美しく壮んなる見送り 送別歌校歌合唱後の万歳」と書かれたキャプション。見送りのテープの先に、創立者佐藤善治郎先生の姿がある。これは、創立10周年の大正13年(1924年)の7月3日の 横浜港の桟橋での写真を、「絵葉書」にしたものである。

 2006年に発行された『横浜アーカイブス』(生活情報センター)という本に「外遊記念の絵葉書」と題して掲載された一枚である。こんな説明がついている。

 ――Gパンにアロハシャツ姿で気軽に海外へ行けるのは最近のこと。昭和半ばまでは海外への旅はすべて船であった。飛行機で行けば地球上たいがいのところは1日で行かれるが船の航海はそうはいかない。何日、何週間かけての旅になる。今生の別れ……そんなことからか外遊記念の絵葉書が作られることも少なくなかった。
 これは、神奈川高等女学校、精華尋常小学校の校長が教育視察の名目で外遊した記念に出された絵葉書である。それぞれに付されたキャプションが楽しい。出発したのは、7月3日、絵葉書が発行されたのは、9月のことである。――

Zenjirou02◆ 第1回教育視察

 この第1回教育視察は、インド洋・地中海を経て、マルセイユに上陸。フランス・イギリス・ベルギー・オランダ・ドイツ・デンマークをめぐってバルカンに入り、トルコ・ギリシャ・イタリア・スイス・フランスを経て、再びイギリスに帰り、アメリカを経て翌年3月23日に再び横浜港へ帰ってきた。(『創立80年史』より)

◆第2回教育視察

 1932年(昭和7年)、善治郎先生は、再び文部省嘱託の辞令を受け、第2回外遊の途についた。今回は英国の私学経営の調査と南米の移民事情の調査が主で、フィリピン・インドネシアからアフリカ東岸の諸港を歴訪し、南米をまわって、ついでイベリア半島を経て北欧三国に至るものであった。行程三万八千哩、赤道を通過すること前後4回、巨船に乗ること15隻。130夜を海上に、7夜を汽車中に、67夜をホテルに送った。これに日付変更のために失った1日と帰朝の日を加えて、ちょうど206日の旅であった。

P1010595_2  校門の横に立っている「飛ばんかな 鵬程三万八千哩」の石碑は、この第2回外遊記念の碑である。

 これらの海外への教育視察が、学園の教育の理念や思想に少なからぬ影響を与えたものと考えられる。『鵬程四萬』『南方移民地の事情と英国の教育』などの著書からも、学びたいと考えている。   (m)

 

 

 

 

2010年4月 9日 (金)

創立者 佐藤善治郎先生の像を化粧直し

P1010244_2   創立者佐藤善治郎先生の銅像が、完成したのは昭和9(1934年)11月2日のことでした。学園の保護者、同窓生が一丸になって資金を集め、作られたそうです。創立20周年の年でした。

 でも、この銅像は、戦時中は金属回収の命により供出を余儀なくされました。横浜大空襲で、全焼した本校の写真にも、台座だけしか映っていません。運よく原型により作られた「硬化セメント」の像が保存されていて、戦後復興の槌音とともに蘇ったのでした。

 学園を見守り続けてくださった創立者像を、これからも大切に残していこうと、この春休みに「化粧直し」を行いました。両隣りに並んでいる「校訓碑」と「飛ばんかな 鵬程3万8千里」の碑とともに、学園の歴史を物語る証人として、生き続けてほしいと思います。

2010年1月 1日 (金)

100周年プロジェクト

神奈川学園は2014年に創立100周年を迎えます。
この大きな節目に向けて、さまざまなプロジェクトが準備されています。
順次、その内容をお知らせしていきたいと思います。