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2018年10月 9日 (火)

《中学1年》 平和学習

第五福竜丸・元乗組員 大石又七さん、第五福竜丸展示館・学芸員 市田真理さん講演会

 

第五福竜丸元乗組員の大石又七さんと、第五福竜丸展示館学芸員の市田真理さんのお話を伺いました。大石さんが第五福竜丸についてのお話を始めたきっかけは、6人の中学生が「話を聞かせてほしい」と、訪ねてきたことだったそうです。気の進まなかった大石さんでしたが、中学生の熱心さに触れて、以来、多くの学校に招かれてお話をなさっています。

神奈川学園と大石さんの出会いは、23年前、当時中学2年生だった先輩が、文化祭の学習で大石さんにお手紙を書いたことから始まりました。毎年学校に来ていただいて、中学1年生がお話を聞き、一日研修で「第五福竜丸展示館」を訪問しています。

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最初に市田さんから「第五福竜丸事件」について、お話がありました。

1954年3月1日午前6時45分 ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行い、160キロほど離れたところにいたマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆しました。巨大なキノコ雲が空を覆い、2時間後「第五福竜丸」には、真っ白な「死の灰」が降り注ぎました。

乗組員23人全員がひどい放射線障害を起こし,半年後には無線長の久保山愛吉さんが、「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という言葉を残して亡くなりました。

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次に、大石さんがお話して下さいました。

大石さんは、14才で漁師になり、第五福竜丸で被爆した当時は20才でした。

退院から2年後、大石さんは東京に出てクリーニング屋をはじめました。故郷の焼津では、新聞報道や政府の対応によって、心ない人たちからの差別や嫌がらせを受けたからです。自分が被爆者であることはずっと隠していたそうです。

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「第五福竜丸」が水揚げしたマグロは、放射能で汚染されていて「原子マグロ」と言われて恐れられ、築地に埋められました。後世の人達が、このことを忘れないために、大石さんが中心になって「マグロ塚」を建てました。この塚は、大石さんのお話を聞いた全国の中高生が、10円募金をしたお金で作られています。

大石さんのお話は、フクシマの子供たちの被爆や「核兵器禁止条約」のことなどにも及びました。

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市田さんから、「せっかくのチャンスだから大石さんに質問のある人はいますか?」と声がかかりました。ひとりから質問が出ると、次々と手が上がりました。

生徒からの質問の一部と、お答えを紹介します。

 

Q 「死の灰」を、どれくらいの時間浴びたのですか?

A 灰の降る中で、6時間くらい操業していました。海水で洗い流したけれど、デッキに白く積もって足跡が付きました。焼津港に戻るまでの2週間、灰と一緒にいたということになります。

Q 灰を見た時の気持ちは、どうでしたか?

A なんとも思いませんでした。何だろうとは思いましたが、何も知らなかったから、怖くなかったんです。

Q 展示館にある「第五福竜丸」は本物ですか?本物だとしたら、どうやって放射能を取り除いたんですか?

A 本物です。放射能には半減期というのがあって、徐々に減っていきます。「第五福竜丸」は、政府が買い取って東京に持っていき、残留放射線を計測していました。安全が確認された後、改造して大学の「演習船」にされました。その後、船としての耐用年数が過ぎたので、ごみの島に捨てられていたのです。それを見つけて修復して、展示館に置いてあります。

Q マグロが危ないということで土に埋めたそうですが、そのほかのお魚はどうだったんでしょうか?

A 小型のさかなは放射線の測定が難しかったので、計測しませんでした。また、その後も核実験は繰り返されましたが、日本政府は魚の検査をやめたので、どうだったかはわかりません。

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最後に、生徒を代表して二人から、感想とお礼を一言ずつ添えて、花束を差し上げました。生徒代表の感想では、「被爆した人が、いわれのない非難を受けたということへの憤り」「知ったことを自分も伝えて行きたいという気持ち」「知らなければ死の灰も怖いと思わないということの恐ろしさ」それらが自分の心に残ったということが、語られました。